ガチで独創的なレビュー:「禅マインド ビギナーズ・マインド」



何度も読みたい。
いや、読まねばならない。

一度の読破では足りないから、何度も何度も。
理解に至るためにも。
真実に近付くためにも。

そのような感じで、それだけの時間を掛ける価値はあると思わせます。真の禅を学ぶために。

「禅マインド ビギナーズ・マインド」
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その内容は自身の成長によって印象が変わっていきそうに思えます。
例えば、5年後に読めば別の感じ方があり、さらには10年後にはまた別の感じ方があり。

共に歩んでいく喜びがあるのではないでしょうか。

本書の導入編では、やはり読むにあたって知っておくべき背景について触れました。






元々は洋書で出版された書籍。

その辺の予備知識は導入編でガッツリ触れたので割愛しますが、本書の構成・内容は禅師である著者・鈴木俊隆氏のアメリカでの法話の記録です。

本書は、禅の修行の方法の指導書であり、禅による生活についての本であり、禅の修行を実現する姿勢や理解についての本です。どんな読書でも、本書によって、自分自身の禅マインド、自分自身の真の姿に目覚める力を得ることができるでしょう。(リチャード・ベイカー)(p16)


全世界で訳されたとされる禅の入門書。
言ってみれば、禅の経典ともなり得るでしょうか。

だから読むには心して掛からなければならない様相はあるものの、私たち日本人にとっても真髄を理解していくには必読の本と伝えさせて下さい。

概して鈴木氏の本はそうだと言えますね。

そして、どうか禅を難しいと決め付けずに読み進めてみて下さい。

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言うまでもなく初心がテーマ。


なかなか本題に辿り着かない序盤。


序文・はじめに・プロローグと3つ続きます。各々が異なる書き手。
実際の法話の前にこれだけ話が続くのには理由があるのでしょう。

恐らくは、何の前触れもなく、いきなり禅について語り始めたところで、読むあなたにとっては何のことだかわからないで終わってしまう懸念もあるからなのかもしれませんね。



だからこれらは準備体操。
本書を読んでいくにあたっての、必要な予備知識とも思えるので、それは助かります。

そう考えていくと、真に禅を伝えようとしていく情熱と丁寧さを本書から感じます。
加えて、それぞれ異なる人物の寄稿でもあることで、本を仲立ちとした、皆一丸となっての布教活動なのだなと微笑ましくもさせます。

そこを感じ取っていくのも良いのではないでしょうか。

そこで一番難しいのは、初心者の心を持ち続ける、ということです。禅について深い理解を持つなどということは、必要はありません。禅の文献を読むときも、そうした本の一行一行をまったく新しい心で読まなければなりません。(p34)



プロローグで初心を学びます。
そして初心に感謝するところから始めます。

それがもたらすものは、常に純粋で心豊かに受け容れられる心境です。

「初心忘るべからず」という有名な台詞をご存知だと思いますが、これは能楽師である世阿弥の言葉ですね。
ジャンルを超えて愛される思想と言えます。


禅の基本は坐禅。


禅を語るにあたり、忘れてはならないのが坐禅の存在。
象徴的なものですね。だからと言って、形だけのものではありません。

あなたはこう考えたことがありますか?



それは何のためにやるのか。
一つ一つの行為にどんな意味があるのか。
そして、実際座っている時の心の保ち方は。

時折、難解な表現がありながらも、その真実を教わっていきます。それぞれに深い所以があるのです。

正しい姿勢で座ったときの心の状態そのものが、悟りです。もし、自分の心の状態に満足できなければ、それは心がまださまよっているからです。私たちの身体や心は、ふらふらしたり、さまよっていてはいけません。(中略)これが仏の道の結論です。(p44)

無理をして、最初から禅や本書の内容全てを理解しようと肩肘を張る必要はありません。

誰しも始めは何となくでいいのでしょう。
感性や人生経験によってフィットする所としない所があるのは否定しませんが、まずは触れ続けるその姿勢こそが大切ですね。私も未だ発見の連続です。完璧ではありません。
 
自分の問題の中で座っていると、どちらがよりリアルでしょうか。(中略)坐禅によって把握するのは、このポイントなのです。よい状況、惨めな状況の連続の中で、修行を続けることによって、あなたは、禅の真髄を悟り、真の強さを獲得するでしょう。(p72)

このように坐禅を通して修業とは何ぞやと語られていきますが、一朝一夕に行かないからこその修行ですね。
焦らず一つずつ知っていく喜びを感じ取ってみて下さい。

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全体を大きく3つに分けて禅を説く。


禅の最初の砦とも言える入門編なので、万遍無く。
そして徹底して必要なことを教えられる流れ。

特に真の仏性、真の修行といった表現が頻繁に見られます。やはり筋金の入った真実の追及といった趣があります。

トルーディ(編集者)は、この本を三部に分けています。「正しい修行」「正しい態度」「正しい理解」で、おおよそ、身体、気持ち、そして心に対応しています。(p21)

正直に言ってしまうと、この3つの区分(第一部、二部、三部)にはさほど大きな違いは見られません。
わずかながらにそれぞれの部で修業とはどんなもので、どう臨むか、そしてどう体得していくのかというニュアンスの違いがあるのみです。



とは言え、皮を一つ一つ剥いで真実に迫っていくような心持ちにさせます。
 
修業の道は、なにかを獲得することではなくて、自分の本性を表すことなのです。これが私たちの修行です。(p98)

そもそもここで語り尽せてしまうほど単純なものではありませんが、だんだんとわかる箇所が増えていくと考えて下さい。
深い考えが並んでいるので、今こうして書いている私も、必死になって噛み砕きながら筆を執っています。
 
もっともよくないのは、この理想を追いかける姿勢によって、坐禅を誰かとの競争にしてしまうことです。これはよくない、非常に浅い修行の姿勢です。(p140)

このようにして、坐禅という禅の象徴を読んでいく中で、気付くことがあります。それは、

共通するのは自分に執着しない心か。


3つに大きく分けられていても、禅の心構えや本質としてここが強調されていくのに気付くのではないでしょうか。
違う表現では、自分を忘れよ、とも表現。

たとえ抽象的な表現が続いていても、この大切さは痛いほど伝わってきます。

あなたは如何ですか?
自分に執着していませんか?

禅に関する他の書籍でも、この無執着の心は共通するところです。
 
このことを理解するためには、仏道を学ぶ必要があります。しかし、仏道を学ぶとは、自己を学ぶことであり、自己を学ぶとは、自己を忘れるということなのです。(中略)このことを理解すると、世界には問題というものがなくなります。(中略)私たちの修行の目的とは、この事実に気が付くことです。(p156)




本書が禅の経典となっていく。


基本的に仏教というのは体験を重んじていくと言われることが多いです。
 
仏道の正しい理解とは、単に知的に理解することではありません。真の理解は、実際は修業そのものです。(p195)

体で覚えるのが真の理解と言い換えることも出来そうです。


ここで他の大きな宗教を思い浮かべてみて下さい。
比較する訳では決してありませんが、それらのように聖書や経典というものを、これといって持たないことがその証拠と言えるかもしれませんね。
一応、仏教の経典と考えられているものに般若心経がありますが、たった276文字であり、書物としての存在よりも、唱える体験・行為そのものを重んじていると思うのですが如何でしょうか。


そう考えていく中で、では、禅に関する経典は無いのかとあなたがどこかで尋ねられたとします。
その場合には、本書がその役目を未来永劫果たしていくと信じてみて下さい。



良くも悪くも日本人の気質が見えてくる。


さて、本書を経典として執着しない心を学んでいくと、終盤ではまた大きなキーワードが現れます。
それは、超越・同化・無情です。

詳細はここでは書き切れないので、是非本書を読んで頂くとして、それらに対してこんな印象を抱くかもしれません。
突き詰めれば、私たち日本人の気質を知っていくような気もするな、と。

本能的にしっくりくる部分も見えてくるのですね。
もはやアイデンティティを感じ始める様相に、ある種の安堵感をあなたにもたらすこともあるでしょう。


例えば先ほど、仏教は体験を重んじると書きました。

日本人ならば、
「つべこべ言わずに、まずはやってみよ!」
良くも悪くもそんな職人的思考の言葉で片付けてしまうシチュエーションへの理解が出来てしまいそうです。

かたや欧米人は、納得するまで質問することも多いです。私自身の体験上そう思います。



だからなのかは断定出来ませんが、著者の鈴木俊隆氏も、アメリカ人に説くにあたって理屈や哲学めいたものとして知ろうとすることに警鐘を鳴らしています。

比較や争いといった二元対立を決して善しとしない禅の教えに逆らってしまう懸念もありますが、これが民族性というものでしょうか。
もしくはバックグラウンド。

私自身も排他的な考えは嫌いですし、そうするつもりは毛頭ありません。
とらわれずに執着しないことが真実に近付けますからね。ただ、素朴な考えでそう思います。

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難解だけど、何度も読んでみよう!


禅問答な表現にイラつかずに!
禅が好きで学びたいあなたでしたら大丈夫かと思います。
 
道元がいうように「時間は現在から過去に向かう」のです。これは論理的な心にとっては真実ではありません。しかし実際の経験においては、過去は現在になります。そこに詩が生まれ、人生があります。(p56)
 
私事にはなりますが、これまでに3回読んでいます。
回数なんか重要ではありませんが、あと2,3回は読んで、その後も末永く付き合っていこうと思う次第です。
 
人間である、ということはブッダであるということです。仏性とは、言い換えれば人間の本当の性質のことです。そのため、あなたがなにもしていないときでも、実際は何事かをしているのです。(p92)

!?

こんな感じで、たまにポカーンとなりそうなのは否めませんが、その反面、身に染みる箇所も多々存在します。
その比率は時間と共に変動していきます。



またもしかしたら、般若心経の知識も必要になりそうです。
知らなければいけない訳ではないですが、ゆくゆくはそちらにも触手を広げてみるのも悪くはありません。



「般若心経の科学」
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私はこちらで触れつつあります。
こちらの書籍は、一見相反するもの同士である宗教と科学を結び付けている内容に惹かれました。
非常にマニアックな書籍です。ご参考に。
さて、話は本書に戻り、ラストのエピローグや訳者あとがきにも、禅の予備知識が再び盛り沢山。

弟子のエピソードからも、鈴木氏の素顔を見ることも出来るのです。
そこで、このようなものからも素顔は如何でしょうか?
貴重に感じます。

鈴木俊隆氏の法話を動画で。



そして、ここで立ち読み。




まとめ。


入門編と銘打ってあっても、わかりやすい内容なのだと早合点しない方が良いですね。

永い年月を使って体得していくべき思想が続き、それらは決してすぐにわかるようなものではありません。
ですが、禅が好きで興味をお持ちでしたら、それは苦にならないでしょう。

日々の生活に添えられた経典として付き合っていくのが良いのではないでしょうか。

そして、何度も真意を語られていく経典のようなその姿には、厳しい修行の片鱗さえ見えてきます。
これが英語で書かれていたとは驚きですし、余計に興味も感謝も起こります。

あなたは如何ですか?



加えて日本人としては、新しいものを学んでいるつもりが、元来眠っているアイデンティティを覚醒させていく一面も本書にはありました。



「禅マインド ビギナーズ・マインド」

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最後に:

執着しない心や無の心は私たちに何をもたらすのだろうか?
そう考えていました。

あなたは何だと考えていますか?


ここまで筋金の入ったものを読んでいくと、ただそこに癒しがあるとか精神の鍛錬だなんて言葉はとても軽々しくて言えないような思いにもさせます。

キチンと学び、触れるからこそ、どこかミーハーな言葉が恥ずかしくて憎くなるほどの書籍。
ニワカを憎む世相に近いものがあります。


そして先程の疑問・・・。

現時点では、自由をもたらしてくれるのかなと思っていますが、5年後、10年後にはまた異なる見解が生まれているかもしれません。
そもそも鈴木氏の教えからすると、答えを出すことにムキになるなと叱られそうです。

とは言え、書物として言葉を知るだけではなく、まだ見ぬ自身の変化も楽しみにしながら、本書と共に歩んで行きましょうか。

本書にはPART2もあります。

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ガチで独創的に読んでくれたあなたに謝謝。

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